「幸せ」とか「幸福」というと、そこはかとなくスピリチュアルな感じが漂ってしまいますね。
しかも「この瞬間から」とか、どう考えても怪しい雰囲気しか感じません。
しかし事実として、自分が「幸せかどうか」の実感は、他人から与えられる感覚ではありません。
決してスピリチュアルだったり道徳的だったりする考え方に傾倒したわけでも、そういう話をしようというわけでもないのです。
「アドラー心理学」とも呼ばれる個人心理学については、前回・前々回も記事を書いています。
そちらも合わせてお読みいただけると嬉しいです。
アドラー心理学で「共同体感覚」を通して語られる、幸せを実感するための考え方を紹介していきます。
「共同体感覚」は幸福を実感する鍵
先日から読んでいた『嫌われる勇気』。
ようやく読み終わり、今は『幸せになる勇気』を読んでいる最中です。
「共同体感覚」とは、アドラー心理学における鍵となる概念。
他者を「仲間」だととらえ、「自分はここにいて良いんだ」と実感することを指します。
他者を「敵」だと見なしていると、何を言われようと、何をされようと自分が攻撃されているように感じてしまいます。
自分に自信がない人、気持ちに余裕がない人は、少しの指摘でも自分が全否定されているように感じてしまう。
相手と自分「どちらかが正しい」という二元論の考え方に執着し、攻撃的になるのです。
このような状態で、気が休まるわけがありません。
では、どうすれば他者を仲間だととらえ、「自分はここにいても良いんだ」という共同体感覚を得ることができるのか。
そのためには、3つの要素が必要になります。
・自己受容
・他者信頼
・他者貢献
それぞれ見ていきましょう。
『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』は、すべての大人に読んでほしい書籍です。
「自己受容」
「自己受容」とは「ありのままの自分を受け入れること」。
自己受容は『嫌われる勇気』の中では「自己肯定感」と区別されていますが、最近の「自己肯定感」は「マイナス面も含めて、ありのままの自分を肯定できること」とされており、一般的にはほぼ同義として扱われている印象を受けます。
「マイナス面も含めて」というのがポイントで、これを同著では「肯定的なあきらめ」と説明しています。
「自分はここにいても良い」と感じるためには、ありのままの自分を受け入れる必要がある。
自分が価値ある存在だと、他者との比較ではなく自身で実感する必要があるのです。
悩み、心を壊してしまうくらい頑張ってしまう人ほど「自分には価値がない」と考えてしまいます。
だからこそ私は、自分にも言い聞かせるつもりで発信し続けているのです。
「頑張りすぎるあなたへ」「悩めるあなたが報われますように」と。
あなたは十分頑張っている。だから、自分を労ってあげることを忘れないでください。
「他者信頼」
「他者信頼」は「他者を『仲間』ととらえ、無条件に信じること」です。
「信頼」と「信用」とは同じ「信じる行為」ですが、区別されています。
信用は、「貸したら返してくれる」、条件付きで相手を信じること。
同じ貸し借りを例にするならば、信頼は「返してくれなくても、それはそれで仕方ない」と思うことといえるでしょう。
人間には「返報性の原理」という心理傾向があります。
与えたら返してくれる、無意識のうちに見返りを求めてしまうものなのです。
だから「あんなにしてあげたのに」と怒りを覚えたり、嘆いたりしてしまう。
無条件の信頼とは、その執着を手放すこと。
怒りや嘆き、虚しさなどのネガティブな執着から解放された、穏やかな境地です。
私はこれを子育てから学びました。
この感覚は間違いなく存在し、かつ「共同体感覚」を得るために必要である。しかし的確に説明するのは実に難しい。
そう思いながら『嫌われる勇気』を読み終え『幸せになる勇気』を開くと、冒頭でまさに以下のような一節がありました。
「ひと言でいうなら、『愛』です。」
また米津玄師氏の楽曲『カナリヤ』も、他者信頼を理解する一助になると感じています。
「あなたとなら いいよ」
「あなただから いいよ」
「もしも最後に何もなくても」
見返りを求めない、執着から解放された境地。
この穏やかな感覚こそ、幸せ・幸福を実感するために必要不可欠な要素でしょう。
「他者貢献」
「他者貢献」は「他者の役に立つこと」。
他者貢献・自己受容・他者信頼は相関関係にあり、どれが先でその後にこれと順番をつけられる概念ではありません。
他者の役に立つ、他者を幸せにする。
できないこと、マイナス面も含めてありのままの自分を受け入れる。
自分と同じで他者も完璧ではない、より良くなろうとしている仲間だと理解して信頼する。
そして「共同体感覚」はこの3つの概念を理解し、実践することで得られる。
逆にいえば「こんな自分じゃダメだ」「他者は自分を利用しようとする『敵』だ」「『人の役に立とう』なんて偽善だ」という考えが、自分を追い詰めていくのです。耳が痛い。
「自分は人の役に立てていない!」と執着するあなた。はい、私です。
残念なことに…いえ残念ではないのですが、「幸せになる勇気」がない私にとっては残念なことに、他者貢献に「何もできない」は関係ありません。
例えば子どもに「健やかに育ってくれればそれで良い」と親が願うように。
例えば親に「傍にいてくれるだけで嬉しい」と子どもが思うように。
具体的な行動・行為ではなく、ただ「存在している」というだけで、他者貢献は為されるのです。
そう、つまり「幸せ」とは…。
「幸せ」とは「貢献感」
「幸せ」とは「貢献感」。
つまり「自分は他者の役に立てている」「自分はここにいても良いのだ」という実感こそが、「幸せ」の実感なのです。
そして「他者の役に立つ」とは、行動や行為ではなく「存在しているだけ」で成り立つのです。
過去の功績をひけらかして「俺ってすごいんだぜ」と自慢するのは、劣等感に起因する「優越コンプレックス」です。
それは行動・行為レベルでしか自分の価値を認められていない証。
「それがなくなったら、自分は何者でもなくなってしまう」という、自信の無さの裏返しなのです。
定年を迎えて退職した途端に、活力を失ってしまう人は少なくありません。
年齢に関係なく生き生きと過ごす人には、打ち込める趣味や一緒に過ごせる仲間がいます。
存在レベルでの貢献感を理解し「自分はここにいて良いんだ」と共同体感覚を実感できれば、まさに今この瞬間から、誰でも「幸せ」になれるのです。
理屈としては理解できても、「現実はそんなに単純じゃない」と言いたくなる部分もあるでしょう。
しかし、常識的な概念や感傷に執着することをやめ、前を向いて歩き続ける覚悟ができるかどうか。
それこそが「嫌われる勇気」であり、「幸せになる勇気」なのです。
アドラー心理学はもはや「宗教」?
『嫌われる勇気』の冒頭で、「哲人」の語るアドラー心理学を「『アドラーの哲学は、結局のところ宗教ではないのか?』」と「青年」は批判します。
しかしそこについて私は、宗教とは「より良い生き方」を説き人々の心を救う教えであり、つまるところ、宗教こそが哲学なのだ考えるのです。
現に哲人も青年の言葉に対して、「歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、私は『宗教』と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。」と述べています。
哲学とは「知を愛する学問」。
つまり、学ぶ姿勢を学ぶ学問こそが哲学であり、画一的な正解が存在するのであればそれはもはや哲学ではないのです。
哲学といえば、私が職場で悩みを打ち明けたときに、経営者はこのように言いました。
「哲学じゃなくて、仕事なんだから。割り切るより仕方がないんだ」
また人間関係に悩む同僚も、皮肉めいて「哲学書でも読むかな」と言いました。
哲学とは確かに、実生活で直接的に役立つことは無いでしょう。
それは否定しませんし、馴染みの無い人が皮肉めいた発言をするのも無理からぬことだと思います。
しかし哲学は決して無駄な学問でも、古臭いカビの生えた学問でもありません。
むしろ価値観が多様化し個人・個性が尊重され始めた昨今、終身雇用の崩壊やリストラ、非正規雇用の増加が社会問題化している現代にこそ、哲学は必要な学問です。
「右へならえ」の画一的な正解が揺らいでいる現代。
自由の増加がかえって不自由さを生んでいる現代においてこそ、あらゆる物事に疑問を投げかけ、自分なりの答えを模索し続ける姿勢が求められているのではないでしょうか。
まとめ
今回は「共同体感覚」を通して、「幸せ」を実感するための考え方を見てきました。
共同体感覚はアドラー心理学の鍵となる概念。
「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つは、共同体感覚を理解するために必要な要素です。
アドラー心理学は「勇気の心理学」であり「使用の心理学」。
「何が与えられたか」ではなく「どう使用するか」が重要とされます。
なぜならば、「存在レベルの他者貢献」に気付くことができれば「与えられたもの」に執着する必要はないからです。
また最後には、哲学について私が最近感じたことについても述べさせていただきました。
忙しいと理由をつけては学ぶことを拒んできた私ですが、ここ数か月間でようやく「自分の人生を生きよう」と思えるようになり、「学ぶことが楽しい」とも思えるようになりました。
この記事を読んでいただけたあなたが、「人生を変える一冊」に巡り合えますように。
いえ、むしろどのような書物であれ、どのような体験でさえ、「人生を変える」可能性を秘めているのです。
「何をどう使用するか」。
あなたに価値を与え、自身の人生を「幸せ」と実感するかどうかは、あなた次第です。
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